提供: 有限会社 工房 知の匠
文責: 技術顧問 大場 充
公開: 2023年3月9日
更新: 2023年3月10日
2011年3月11日の午後、東北地方を大きな地震が襲いました。揺れは激しかったのですが、コンクリートでできた建物は、倒壊しませんでした。宮城県の北部にある石巻市の北端にある大川町でも、強い地震を観測しました。大川町の小学校には、100名足らずの小学生が、学校にいました。地震で強い揺れを感じたため、先生達は急いで職員室に集まり、どうすべきかを議論しました。先生たちの議論は、1時間近く続きました。
大川小学校は、北上川の河口近くの平地に建てられていましたが、海岸線からは10キロメートルほど離れた、山と川に挟まれた平地に建てられていました。小学校の近くには、石巻の町に続く国道が走っていて、北上川には大きな橋が架かっていました。地震の直後、先生方は、誰も津波が来ることを予見て来ませんでした。不運にも、校長先生は、会議で遠くへ出張していました。先生方が、職員室で対応を議論していた時、消防署の宣伝カーが、津波の危険性を知らせながら、小学校のそばを通ってゆきました。
ここでは、災害にあった時、私たちは何を一番に考え、どう行動しなければならないのかを、大川小学校で起きた事件を参考に考えたいと思います。本記事の原文は、2015年11月に、中国新聞社が発行していた有料配信サービスのメールマガジンの原稿として執筆されたものです。
2011年3月11日、宮城県の北部、岩手県との県境に近く、太平洋にそそぎこむ北上川の河口付近にある大川町は、曇り空で、時々、雪がちらついていました。その日は、金曜日で、町の人々の多くは近くの都市、石巻に働きに出ていました。家に残っていたのは、高齢のおじいさん、おばあさんや、店番をしていたお母さんやお父さん、家で仕事をしていた大工さん、でした。子供たちは、小学校へ行っていました。
その日、大川小学校には、100人ぐらいの児童が学校へ来ていました。昼食が終わり、午後の授業が終わりそうになったとき、教室に居た児童たちは大きな揺れを感じました。最初は、皆、頭がくらくらして、目まいがしたと思ったようです。しかし、すぐにそうではないことが分かりました。座っていても、立つことができないくらい大きな揺れだったからです。本棚からは本が落ちてきました。
生徒たちは、皆、先生の指示で、机の下に体を隠し、天井からものが落下しても大丈夫なように身構えました。1分ぐらいだったでしょうか。2分以上だったかも知れません。大きな揺れが続きました。皆、恐怖に怯(おび)えた顔で、しっかりと机の足につかまり、机の下に隠れていました。
揺れがだんだんと小さくなり、止まりました。しかし、また揺れ始めるかもしれないと皆心配していました。先生が大きな声で、「皆さん、今から校庭に逃げます」と言って、全員を机の横に立たせました。足が震えて直ぐに立てない子もいました。今まで、経験したことがないような大きな揺れで、怖かったからです。
先生は、教室にいた生徒の数を急いで数え、全員が無事であったことを確認しました。そして、「私の後についてきてください」と言って、教室の前のドアから出ました。教室にいた生徒全員がそれに続きました。いつものように雑談をする児童はいませんでした。それほどの恐怖を感じ、緊張していたのです。
円形の新型校舎を同心円状に分けて作った各教室から、先生に従ってたくさんの生徒がほぼ一斉に出てきて、廊下はごった返していました。生徒たちの足音で、先生の声が聞こえないほどでした。どの生徒も前を行く同級生の後をしっかりとついてゆくのが精いっぱいでした。
廊下から、直ぐに校舎の外に出て、コンクリートの土間を上履きのまま走り、先生の指示で、生徒たちは校庭の北の端に集まりました。クラスごとに、集まり、各クラスの担任の先生が、点呼を行い、全員が無事に退避したことを確認しました。先生方は、すぐに、その結果を教頭先生に報告しました。この日、校長先生は、出張で学校にはいませんでした。
教頭先生と、各クラスの担任の先生方、その他の先生が集まり、このあと「どうすべきか」について相談を始めました。校庭に集まった全生徒は、寒空の下、そのまま校庭で待つことを指示されました。先生達は、職員室に集まって、相談を始めました。それから少しして、教頭先生から全校生徒に対して、上履きを下履きに履き替えて、校庭で待つようにとの指示が出されました。生徒たちは、その指示に従いました。
少しすると、小学校近くの民家の人々、特にお年寄りが多かったのですが、その人々も少しずつ小学校の校庭に集まって来ました。集まって来た小さな子供と大人たちも入れると、全部で150人程度の人々が校庭にいました。大人たちは、心配そうに互いに話をしていました。これからどうすれば良いかについて話しあっていました。
大人たちの一部には、直ぐに裏山に逃げた方が良いと言った人たちと、先生たちの相談の結果を待って、子供たちと一緒に行動した方が良いと言った人たちがいました。大人たちは、それぞれの意見を主張して、議論をしていました。子供たちの中にも、直ぐに裏山に逃げた方が良いと、先生に進言した生徒がいました。
校長先生が不在だったこともあり、先生たちの議論は、なかなかまとまりませんでした。ある先生から、県の教育委員会に電話をして、指示を仰ぐべきだとの意見があり、すぐに教頭先生が電話をしてみましたが、地震の影響で、電話はつながりませんでした。教頭先生は、校長先生の携帯電話にも電話をしましたが、電話はつながりませんでした。大川小学校は、完全に孤立していました。先生方は、自分たちでこれからどうすべきかを決めなければならなかったのです。
大川小学校は、海岸から10キロ近く川をさかのぼった場所にあり、大きな川(北上川)にかかっている橋のすぐわきに建てられていました。川の両脇には、高い堤防があり、10メートル程度の波であれば、小学校に水が流れ込むことはないと思われていました。先生達は、数十分の議論の後、児童の保護者が学校へ迎えに来た場合は、保護者に児童を渡し、帰宅させることを決めました。
問題は、保護者が迎えに来ない、大多数の児童と、校庭に集まって来た学校周辺の家々の住民達をどうするかでした。一部の先生は、津波が来る可能性を心配し、裏山へ避難することを主張しました。別の先生たちは、整備されていない山道を、低学年の児童を引率することの危険性を考慮し、より整備されている公道を橋に向かって進み、周辺で最も高い場所である橋の南側の大きな広場に移動することを主張しました。
少しの間議論が続き、最終的に道が整備されており、移動の問題が少ない橋のたもとの広場へ移動することを決定め、教頭先生が生徒全員にそのことを知らせました。生徒たちは、学年別にクラス単位で、校庭から公道に向かい、坂を上がり、橋の方へ向かって歩き始めました。この時、既に親が車で学校へ迎えに来て、親と一緒に帰宅した生徒が10人以上いました。まだ、事態(じたい)は差し迫(せま)ってはいませんでした。
消防署の宣伝カーが、津波が起こっていることを知らせて、通り過ぎて行きました。校庭に集まった大人たちの中には、津波が来た場合のことを考え、裏山に逃げる方が安全だと考え、裏山に逃げはじめていた人たちがいました。裏山は、少し急な坂を上る必要があったため、簡単には登れない状況でしたが、その人たちは、木の幹や草につかまり、何とか山に登ろうとし始めていました。
生徒たちが先生に引率され、学校のすぐわきを走る国道を橋に向かって、北に歩いているとき、川下の方からドーと言う地鳴りのような音が聞こえてきました。川の方を見ると、川下の方から黒い泥の塊(かたまり)のようなものが、どんどん近づいてきていました。それでもまだ、川の高い堤防に守られ、川からあふれ出て、周囲の家や畑が泥に飲み込まれる状態にはなっていませんでした。
児童を引率していた先生たちは、やはり橋の方へ避難して来て良かったと心の中で思っていました。川をさかのぼって来た泥の塊(かたまり)は、あっという間に生徒たちの目前に迫ってきていました。生徒たちは、その音と、地面から伝わる振動に、足がすくんで、前へ進めなくなっていました。先生たちも、あまりの恐怖心で足が止まってしまいました。
児童達の行列の先頭が、橋のたもとに到着した時、不幸にも泥の流れが川の堤防を越えて、生徒の方へ向かってきました。行列の先頭にいた児童達には、逃げることは不可能でした。その児童達は先生と一緒に泥流に飲み込まれてしまいました。びっくりして、空いてしまった口の中に泥水がすごい勢いで入って来ました。あまりの恐怖で何も感じられないうちに、児童達は泥水の中に吸い込まれて行きました。
行列の最後尾の生徒達は、その時、校庭を出たばかりでした。高学年の児童の中には、先頭集団の児童が泥水に飲み込まれたのを見て、反射的に裏山に向かって走り出した男の子たちがいました。後ろにいた大人たちも一斉に山に向かって走り始めました。逃げ遅れた児童の中にも、泥水に押し流されて山の方に流された生徒がいました。
一部の児童は、泥水に飲み込まれる前に、山の少し高い所まで進み、なんとか助かりました。大人たちの中にも、同様に助かった人たちがいました。さらに、泥水に押し流された児童や大人たちの中にも、山のふもとまで流され、たまたま山の木に当たって、その木にしがみつき、一命を取り留(と)めた人たちがいました。
しかし、校庭にいた児童と大人たちの半分以上が、堤防をあふれ出た泥水に飲み込まれ、命を失ってしまいました。先生たちの大多数も、生徒たちと一緒に命を落としてしまいました。先生たちの選択(せんたく)が間違っていたのです。津波は、先生たちの予想をはるかに超えた、高い津波で、10メートルほどの堤防を越える、15メートル近くに達していたようです。小学校の建物の2階部分まで、完全に泥水に沈んでいました。
しかし、裏山のふもとから10メートルほども登れば、ほとんどの人は助かったのです。一部の小学生や大人が言ったように、すぐに全員が裏山に逃げ込んでいれば、このような悲劇は起こらなかったはずです。普通の状況であれば、県の教育委員会からの指示を待つことができますし、責任者である校長の決断を仰(あお)ぐこともできるでしょう。しかし、不運は重なるものです。地震の直後で、そのどれもが、成立しなかったのです。
日本人は、もしものことをあまり考えたがりません。また、考えようとしても、どんな「もしも」がありうるか、十分に想像することが苦手です。日本人は、現実を受け入れ、成り行きに任せる傾向が強いのです。しかし、それではいつまでも進歩がありません。われわれは、過去の経験に学び、われわれの行動を変えて行かなければ進歩しないのです。
この2011年3月11日の、宮城県石巻市大川で起きた惨事から、われわれは危機的な状況において、われわれはどのように行動すべきかを学ばなければなりません。このような状況で、われわれは起こりうる最悪の事態を想像し、その事態が生じたとしても、可能な限り被害を小さくする行動を選択(せんたく)しなければならないのです。
小さい時からよく勉強ができ、偏差値の高い大学を卒業し、難しい教員採用試験にも通って来た、大川小学校の先生達でも、集団としては、その選択(せんたく)を誤ったのです。何を学び、何を知っているかが問題ではないことは、明らかでしょう。何をすべきかを考えられること、それを行動に移せる勇気がなければだめなのです。代償(だいしょう)は、あまりに大きすぎました。二度と繰り返してはなりません。
(初稿、2015年11月14日 大場 充)